35歳からの中二病エンジニア

社寺・鉄道・アニメを愛でるウェブ技術者の呟き

36歳にして運転免許の返上を考える

人生初の青切符を頂戴した。赤信号無視で。

その程度で免許返上なんてメンタル豆腐すぎとか、一時の感情に左右されすぎとか、まぁ青切符1枚だけであればそうなのかもしれない。ただ、僕の場合は切っ掛けが青切符だったというだけで、それまでも今にして思えば運転向いてないなぁと感じる瞬間があった。そうした過去のことや将来のことを含め、考えを整理しておこうと思う。

やらかし内容

東京台場のパレットタウンを出て、お台場海浜公園へ向かおうとしていたのだが、湾岸道路の側道へ入らないといけない所を本線に入ってしまい、大井JCTの方まで直進する羽目になってしまった。ナビに側道へ入れと言われていたけれども、湾岸道路に入った時点で側道なのだと勘違いしていたのが良くなかった。

とにかく台場へ戻らねばと思いつつ転回しようとするも、逆方向が工事中で入れなくなっていて、完全に迷ってしまった。仕方なくレインボーブリッジの方へ向かおうかと信号を左折する。この時、右手先頭に白バイが停まっているのを完璧に視認していた。

左折すると今度は側道からの合流があって、道がわけわからないことになっている。そして目の前に連続する2つの赤信号。完全に混乱してしまい、よくわからぬまま徐行していたら、どうやら奥の方の停止線だったらしく、あえなく御用に。

ちなみに、反則金の支払い云々の件は、その時は頭が真っ白になっていたので、気付いた時には担当警察官の言われるがままに署名して、青切符と9,000円の払込用紙が手渡されていた。まぁ、今回はいずれにせよ申し開きようのない事案だとは思うけれども。

拙いと考えた理由

今回は信号無視だったけれども、自覚のある違反であれば、それはそれで駄目ではありながらも、まだ精神的ダメージは大きくなかったと思う。違反した事実を認めて、同じ過ちを繰り返さなければ良いのだから。実際、僕は1度だけ、10年以上前にスピード違反で赤切符を頂戴している。この時は完全に自業自得だったのだけれども、反省はしても免許を手放すとかは考えもしなかった。

ただ、今回は白バイを視認していた上に、全くの無自覚に信号無視をしている。つまり、僕の判断能力に問題が生じていたということで、自分の意思で改善できるものではない。自動車の運転手は、一時でも判断能力が鈍ることがあれば、人の死と隣り合わせとなってしまう。今回は偶々信号無視だけで済んだけれども、一歩間違えれば人様を轢いていた可能性だってあったわけだ。

都市部の道路が複雑で、全ての標識や信号、周囲の車や歩行者、自転車等に注意して走行するのが大変というのは、確かにあるかもしれない。ただ、だからといって多少のうっかりを運が悪かったとか、仕方ないとか、水に流すのは違うと思う。都市部に限らず、自動車を運転していると、子供の飛び出しや前方車両の急ブレーキ等、咄嗟の判断を求められる時がしばしばある。こうした時に、うっかり轢いてしまったとか、うっかり追突してしまったでは許されないのである。

今までの運転を振り返る

翻って、自分の今までの運転を振り返ってみると、平時に強く、有事に極端に弱いという自己評価になる。

田舎育ちで、通勤とかの普段使いでも自動車に乗っていた時期がそこそこ長いので、普段の運転に関しては上手いと言われることが多い。峠道や狭隘な道も苦手ではない。ただ、ややこしい交差点や突発事象には滅法弱い。今までにも交差点で混乱して一方通行を逆走しかけたりとか、前方車両の急ブレーキに気付くのが遅れてあわや追突とか、よくよく思い出せば色々とやらかしている。事故を起こしたことが無いのは単に運が良かっただけかもしれない。

そんなにやらかしているのなら気付けよと思うかもしれないが、人間というのは残念な生き物で、いざ実害が降りかかって来ないと自身の行いを顧みない部分がある。そういった意味では、交通違反のパトロールをしている警察官諸氏には頭が下がる思いだ。僕があの時青切符を貰っていなければ、いつか大事故を起こして誰かの一生を棒に振っていたのかもしれないのだから。

そう考えると、これから更に歳を重ねるに従って判断力や瞬発力が落ちることがあっても上がることはそうそう無いだろうから、今のうちに免許を返上しようという気にもなる。

ASDから来る問題も

僕特有の問題として、ASDの影響により全くの運動音痴だということもある。中学時代など、通知表の成績が他はオール5なのに、体育だけ2だったこともあるくらいだ。逆に体育で3より上を取ったことが無い。他の科目と同様に真面目に受けていたのに。

実際、野球やサッカーでは全くボールに反応できなかったし、逆上がりや登り棒もできなかった。ただ手をこまねいていたわけではなく、水泳教室に通ったり、父親とキャッチボールしたりという訓練も重ねたけれども、結局人並みにすらに体を動かすことはできなかった。

運転免許も、MTは無理だと思ったので最初からAT限定で取得した。それでも一応適性検査を通っている以上は問題なかったということだけれども、それから既に20年近く経過しているし、今の適性がどうかは怪しい。そもそも、教習所のカリキュラムや試験ってザルすぎないか…?とも正直思う。

よくよく思い返すと、教習所時代から僕は鈍くさいことを指摘されてきたような気がする。学科は難なく通るし、教習所の練習コースであれば徐行なので余裕なのだけれども、公道に出ると途端に教官がソワソワし始める。多分、人よりも反応が鈍かったのだろうなと、今になって思う。

それでもASDの特性として、同じ場面に遭遇した時は学習して強くなっているので、何度も同じ道を走ってきた結果、試験では通るようになっていたのだ。

ただ、これまたASDの特性として、自分の想定パターンに存在しない場面に出くわすと、途端に混乱してしまう。今回は正にそれで、左折直後の側道からの合流と連続信号で、一気に大量の新着情報が入ってきて、脳内アラート大合唱状態になったのだ。こういうの、適性検査とかで引っ掛けられないのかな…。

適性なくして免許なし

ところで、僕は常々、適性の衰えた高齢者からは運転免許を剥奪すべきだと考えていた。その理由は勿論、彼らによって事故の危険性が高まっているからだ。

これは今すぐやるべきという話ではなく、原則論だ。原発に関する議論で、将来的に全廃すべきではあるが、現状の国民生活を破壊してまですぐに全廃するのは拙速だというのと同じ話である。いきなり高齢者から免許を取り上げたら、交通機関の発達していない地域はどうなるのだという問題が、当然に湧き上がってくるはずだ。そうした諸問題の解決が必要なことには異論ない。

閑話休題。適性の衰えた高齢者から運転免許を剥奪すべきだとして、問題となるのは年齢ではなくて、むしろ適性の方だ。適性があれば高齢者でも(定期的な検査は必要だろうが)乗れば良いし、適性に問題があるのならば、若かろうと容赦なくふるいに掛けるというのが、自然かつ公平だと思う。

その点、今の運転免許制度は危険だと思っている。一度免許を取得すれば、違反しようが、免停にでもならない限りは講習だけで更新されていく。免停になるというのは一発で相当の違反をしたか、常習的な小さな違反の積み重ねによるものなので、僕のようなうっかりパターンは引っ掛かりにくい。運転頻度が少なければ尚更だ。ある意味で最も危険な層が野放しにされていると言えなくも無い。

そう考えると、免許の更新時に毎回とまでは言わずとも、若い内からも3回に1回くらいは更新時に適性検査を実施した方が良いのではないかと思えてくる。そして、僕自身に関してはもはや自分で自分の運転適性が信用ならなくなっているので、先ず隗より始めよという意味でも、運転免許を返上するのが筋だという考えに至った。

運転免許を返上するメリットとデメリット

実際に運転免許を返上するとして、生活上どういった変化が起こるかも考えておきたい。

運転免許を返上するメリットは、他人を殺傷する可能性を格段に減らせること、これに尽きると思う。車は銃社会でない日本において、一般人が持ちうる最凶の武器であろう。

一方で、デメリットは多い。

まず、免許証を身分証として使えなくなるのは、今であれば写真付きのマイナンバーカードで代用できるのでそこまで不便ではなくなったかもしれないけれども、何だかんだで今の日本では「身分証イコール免許証」という意識は根強く、その他の身分証では一手間増える場合もある。

また、住む場所が制限される。公共交通機関のある程度発達した地域でないと、車無しでは生きていくのが難しいということは、田舎生まれ田舎育ちの人間としてよくよく理解しているつもりだ。免許を返上した時点で、住む場所は都市部にほぼ限定される。

あと、僕の場合は社寺巡礼が趣味なので、交通の不便な社寺へ参るのが難しくなる。これは正直痛い。まぁ諦めてタクシーを使えということか。幸い、鉄道はこちらも趣味にしているので、途中まで鉄道で向かうのはむしろ楽しそうだと、前向きに考えるしかない。あとは、早いところ自動運転が実用化されることを祈りたい。

おわりに

僕の運転免許は今年末で更新を迎える。その頃には今よりもフラットに是非を考えられるだろうから、丁度良い。身分証として持ち続けるみたいな中途半端な真似はしたくないので、そのまま失効させるか、自主返納して運転経歴証明書を取得するか(コメント参照)、適性を見極めた上で更新するかを改めて考えようと思う。ただ、少なくとも今の気持ちとしては、もう自動車は運転しようとは思わない。いつか大事故を起こすのが、怖い。