35歳からの中二病エンジニア

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新幹線殺傷事件の小島被告は邪悪の化身か

この手の事件の場合、何か言葉を発すれば誤解に繋がり得るため今まで沈黙を貫いてきたけれども、我慢できずに筆を執ってしまった。

https://this.kiji.is/575233192857404513this.kiji.is

最初に断っておくと、僕は小島被告をASDだと断定するつもりは無い。また後述するがASDに対して画一的な捉え方をするのは宜しくないと考えている。

当然ながら僕は殺人を肯定するつもりは一切無いし、小島被告を擁護するつもりも無い。被告についてはただ冷静に法に則り裁かれてほしいと願っている。ただ、彼を殊更に人でなしだとか邪悪だとか人間性まで否定することについては納得しかねる部分がある。

自分もそうなっていた可能性

リンク先の記事によれば、小島被告は裁判員裁判の被告人質問で、検察側に被害者やその家族への謝罪の気持ちを問われ、「一切ない」と述べたとのことだ。

彼の一連の行動は、全てが冷徹なロジックに従っているように見える。目的は刑務所に入ること。無期懲役を狙うのであれば殺人、それも2人が適当と判断したらしい。謝罪しない理由についても「謝罪すれば仮釈放されてしまうから」という、これも本人の理屈に従っているのだろう。そこに他者の意志は一切介在しない。他人が死のうが心身を傷付けられようがお構いなしの姿勢に見受けられる。

世の中の大多数からは、そういった姿勢に対して「これが血の通った人間のやることか」という怒りを向けられるのだろう。ただ、僕は素直に彼に対して怒りを向けることができない。むしろ自分もあるいは彼のような行動を起こす人間になっていた可能性が少なからずあったのではないかと思えてならない。

血の通った人間とは何か

小島被告がASDかどうかはわからないけれども、少なくともASDの特性と思われる言動が目立つことはこれまでの経緯から明らかだ。僕もそうなのだけれども、少なくないASD持ちの人間は、他人に対する興味を著しく欠いている。ただASDはスペクトラム、雑に言えば個人差が激しいため、ある特性が強く出る場合、弱く出る場合、ほとんど出ない場合と様々なのは注意しておきたい所だけれども。

僕は同様の特性が比較的強く出ているので理解できてしまうのだけれども、このタイプの人間というのは他人の痛みを理解することが難しい。しかもASDは一般に病気ではなく障害に区分されているため、本人の意思や薬物等で簡単にどうこうできるものではない。語弊を恐れずに言うならば、このタイプの人間に「相手の立場に立って考えろ」と言うのは、先天的に四肢が不自由な人に走れと言うようなものだ。

なので、被害者や遺族を含む他者に対する冷徹さについてはある程度どうしようもない部分があると考えている。オブラートに包めばと思われるかもしれないけれども、婉曲的なコミュニケーションが苦手なのもASDの特性として存在していることは覚えておきたい。結局他人を傷付けているではないかと言われたら何も言い返せないのだけれども、それでも事実としてそういう人間は一定数存在するし、僕も含めてそういう人達も生憎血の通った人間であり、現代社会においては人権を有している。

どうやって人間社会で生きていくか

とはいえ、そういう特性だから罪が赦されるかと言えば、そんなことはあり得ないわけで。そんな特性を持った人間でも社会とうまく付き合っていくことが求められる。僕はその上で必要なのは自分なりの行動規範だと考えている。

例えば僕の場合、幸か不幸か幼少期に母親への恐怖心を植え付けられたことが行動規範の確立に繋がった。どういうことかというと、

  • 何らかの行動を起こす
  • 母から怒鳴られる
  • 怒鳴られると聴覚過敏もあって自分が辛い
  • 自分が辛くなることは避ける
  • 結果的にその行動を起こさなくなる

この繰り返しと発展である。最初は怒鳴られるまで気付かないけれども、何度か学習するうちに「怒鳴られる前に注意される」ということに気付く。そうすると、注意された時点で止めておこうとなる。また、母以外から注意されても止めるようになる。人からだけではなく標識や書物も対象にする。法令のような体系的な情報も参照する。などなど…。まぁ、出発点が恐怖心なので色々と人間が歪んだ部分は否めないけれども、それはまた別の話。

こうしたことに加えて、僕の行動規範として「自分がされて嫌なことは人にしない」というのがある。これがどこから生まれたものかはどうにも定かではないけれども、大体はこの2つの行動規範に沿っていれば人の道はそうそう外れないだろうと思って日々生きている。逆に言えば僕が気にしているのはそれくらいで、人がどう思うだろうかなんて考えたことも無い。まぁ考える機能が付いていないのだから当然なのだけれども。

僕が交通法規を守るのは事故に遭いたくないからだし、僕が人を殺さないのは今の生活を奪われたくないからだ。まぁ殺人は自分が殺されるのが嫌なので、合法でもやらないとは思うけれども。小島被告にもそういう行動規範があれば、あるいは今回のような事件にはならなかったかもしれないと思う部分もある。

何らかの行動を起こす時に、誰がどう思うなんてことは全く脳裏に無いし、それが悪いことだとも思わない。というか、他者を思いやれないのが悪いことだと思っていたら自分は生きる資格の無い人でなしになってしまうので思う余地が無い。できるのは結果として人間社会で何とか排除されずに生きていくこと、それが精一杯だ。行動のプロトコルが根本部分で異なっている以上、多かれ少なかれこちらも社会も苦労を伴う。そう考えると彼と僕を分けたものは、ほんの紙一重だったのかもしれない。

おわりに

今回の事件について思う所は数あるけれども、まずは「事実としてそういう人間も社会には一定数存在する」ということと、「そういう人間の中にはこういう考えで生きている人間もいる」ということに焦点を絞って書いてみた。一方で、被害者遺族の方々の心情等については大多数の読者の方が僕よりずっとよくお察しだろうということで、敢えて一切書いていない。

小島被告が実際にそのような思考を以て行動しているかは本人のみの知る所ではあるけれども、こうした思考もあり得るという意味での人間理解の一助になれば幸いだ。一昔前であれば、こんな内容を曝け出しただけでも犯罪者予備軍扱いされて村八分とかありそうだけれども、現代がもう少し多様性に理解のある世界になっていることを期待したい。